陶器の歴史

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有田焼

有田焼

有田焼の歴史は1616年の李参平(または三平。日本名は金ヶ江三兵衛)による泉山陶石の発見に始まると言われています。
李参平は1597〜1598年の慶長の役で、鍋島軍が朝鮮からの引き上げの際に日本に連れ帰った陶工です。初期の頃は多久安順の保護の下、現在の多久に住み陶器を焼いていましたが、それでは満足できず、やがて磁器の原料を探す旅に出かけました。
そして有田の泉山で理想的な陶石を発見して磁器の製造を始めたというのが、磁器の始まりに関する最も有力な説になっています。

有田焼

有田ではこれ以前にも、先の文禄の役(1592〜1593年)の際に連れてこられた朝鮮人陶工などが各地で陶器を焼いていましたが、磁器の製造を始めたのは李参平が初めてだったと言われています。
李参平が白川の天狗谷に窯を開き、本格的に磁器の生産を行ったというのが通説です。しかし天狗谷窯が本当に最初に磁器を焼いた窯なのかどうかというのはまだ議論の余地があるらしく、また李参平によって磁器が初めて焼かれたのが1616年であるという確たる証拠も残っていないということですが、考古学的見地からは磁器の創製は1610年代頃だろうと考えられているそうです。

■有田焼・伊万里焼 https://www.toukidou.com/1b-arita.htm

泉山磁石鉱の発見以来、有田の窯業はその後数十年間で急速に発展しました。
その生産ぶりはたいへん盛況で、燃料用薪の乱伐がおこったため、1637年佐賀鍋島藩は山林保護の目的で826名の日本人陶工を追放し、大幅な陶業地の整理をせざるを得なかったという記録が山本神右衛門(のちの初代皿山代官)の年譜に残っています。
この事件以前は陶器もまだ数多く作られていましたが、以降、有田における陶磁器生産は皿山代官所の厳しい管理下におかれ、磁器中心の生産体制が確立されました。
製造されていた製品が、「初期古伊万里」と呼ばれる素朴なものから中国風のデザインに大きく変化していったのもこの頃のことです。